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いいこと云う人たち アーカイブ

2005年10月09日

福田和也『乃木坂血風録』(新潮文庫)

 女の代議士ね。いいんじゃないの、二、三人ならいても。

2005年10月10日

スガ秀実『JUNKの逆襲』所収「『二十一世紀の資本主義』における文学」

 今日の教育問題の多くは、日本の大学に学生運動がちゃんとないというところに淵源するんです

三浦展『ファスト風土化する日本 郊外化とその病理』(洋泉社新書y)

 古い名曲喫茶に行けば戦前の文化人の雰囲気がある。古本屋に入ると一九六〇年代の左翼学生の名残がある。雑貨屋には七〇年代のヒッピーの流れがある。ライブハウスには八〇年代のパンク魂がいまも息づいている。商店街には古いパン屋、豆腐屋、畳屋、葬儀屋などが残っている。もしかしたら、嫌な時代も含めた多様な時代の記憶があり、それらが重層的に堆積している。古い家のはがれたペンキか壁の落書きのように、それらの古い時代の名残が街のそこここに透けて見える。そういう多様で重層的な都市の記憶は、ファスト風土的郊外には期待すべくもない。

相見英咲『倭国の謎 知られざる古代日本国』(講談社選書メチエ)

 一〇代崇神天皇の時、皇室はついに〈倭国=日本国〉の主人となった。皇室=大和朝廷の考え方は一風変わっていた。前代の王朝の非を鳴らして自らの正当性を主張するのではなく、自分の氏以外の〈倭王=日本国王〉など、これまでに存在しはしなかった、という考え方を展開し始めた。即ち、一方では前代の王家邪馬台国の情報を後に伝えることを禁止し、また一方では、倭王ではなかった九代開化天皇までの事績を廃棄し、これらの伝承も許さなかった。(略)
 皇室・朝廷にとって大事なことは、〈倭国=日本国〉は、これまで唯一皇室が統治してきたし、今後も唯一皇室が統治し続ける、という考え方を疑問の余地のないものとして普及徹底させる、ということであった。即ち“万世一系の天皇観”であるが、これが確かでさえあれば、個々の天皇が君子であろうが暴君であろうが、長い歴史の中ではどう伝えられても良いこと、と考えられた。従って、この万世一系の天皇観の下、記紀は天皇が実際に暴君であった場合、少しも隠すことなく、あからさまに描いている。
 (略)書紀の編著者たちは、皇室にとり不都合な話であっても少しも隠そうとしていない(外交関係はそうでもないが)。「史料のいう所を素直にとり入れようとし」ており、この態度は「できるだけ広く史料をとり」、「諸説の共存(多くの一書の採用)を認める」ところにまで至っている。書紀がこのような客観的な態度をとれたのは、逆説的な話だが、なんと“万世一系の天皇観”=皇国史観のおかげなのである。

鴻上尚史・デーモン小暮対談

 鴻上――悪魔って、SEXするのかな。
 デーモン――悪魔がSEXを創ったのだ!
      (『鴻上尚史対談集 音楽遊戯』より)

森達也『「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔』(角川文庫)

 破防法弁明で麻原の陳述に立会人として参加した浅野教授の話では、最後に発言を求められた麻原が、公安調査庁受命職員に向かって、「破防法を適用しなさい。しかしオウム以外の団体には今後ぜったい適用しないでほしい」と述べたという話が興味深かった。当時のメディアはこの発言についてはまったく報道していない。唯一新聞一紙だけが、具体的な内容には言及せず、「最後に麻原被告が発言した」とだけ記述していた。僕も今日まで、彼がそんな発言をしていたことなど知らなかった。伝えるべきことの取捨選択は、確かに報道する側の判断だ。しかし誰もが関心を持つ麻原の発言を、全メディアが揃って封殺することは、ある意味で虚偽の報道以上に悪質だ。

東浩紀・大澤真幸『自由を考える 9・11以降の現代思想』(NHKブックス)

大澤 つまりこうです。ここに、世界最大規模の個人情報のデータベースがある。なぜあるか問いただしてみると、その存在を正当化するにたる理由らしきものは、ほとんど見出せない。「住民票が取りやすいだろ」とか言われるわけで、それはそうですが、あまりに些細で、これほどのデータベースが存在している理由としては、無に等しい(笑)。そこで、その過剰性を説明すべく、批判側としては、表現の自由とか、今はない将来の懸念とかをもち出すことになるわけです。これは、掟の門を前にして、こんなふうに考えるのと同じことです。どうしても、門のなかに入れてもらえない。これほど入れてもらえないということは、よほど大事なものが門の向こうに隠されているに違いない、と考えたくなる。でも、そう考えたら、掟の門と、ほんとうの恐ろしさは、かえって消えてしまう。門の向こう側は、ほんとうに何もないのです。これは、ウィンドウズの横行がマイクロソフトの陰謀だ、みたいな話と同じなんですよね。つまり、ウィンドウズの支配に、説明不能な脅威を覚える。その脅威を、何とか、古典的な設定、古典的な権力や支配のフォーマットのなかで理解しようとする。どこかに悪いやつがいて世界支配でもねらってくれているとわかりやすくなるわけです。そこで、ビル・ゲイツの陰謀だということになると安心するわけです。しかし、こういう陰謀的な理解は、不安を喚起しているようでいて、ほんとうは、真の脅威を馴致して、不安を解消しているわけです。権力の実際の作動はすでに新しいのに、それに対する批判的な理解は、これを、古典的な権力のほうに問題を回収して解決しようとする。でも、それは起きていることに対して古典的に対処しているだけなので、ほんとうの意味での対抗策にはなっていない。

スガ秀実『JUNKの逆襲』所収「ランボーvsビンラディンは可能か」

 一九六八年以降の世界的な景気波動の下向傾向は、すでにその社民的福祉主義を不可能にしつつあったし、八九/九一年の冷戦体制の崩壊は、決して先進資本主義国リベラリズムの「勝利」(歴史の終焉!)ではなく、その破棄と別途(戦時体制!)への政策転換を決定的にするものであったと見なすべきである。元来が軍事テクノロジーとしてあったITが民間へと流入してきたことを目して、オプティミスティックな「IT革命」なる観念が流布したが、それは同時に、市民社会の戦時体制化とも捉えねばならないのではあるまいか。
 「IT革命」に象徴されるところの、新たな資本主義段階(いわゆる後期資本主義)は、国民を――たとえば、兵士として、あるいは労働力として――総動員する必要はない。それは相対的過剰人口でさえなく、絶対的な過剰人口である。SF的に言えば、資本はもはや(ほとんど)労働力を必要とせず、戦争も(ほとんど)兵士を必要としない。しかし、過剰に存在する人間は殺すわけにはいかないのだから、彼らをいかに管理し隔離しておくかが問題となる。それは、いわゆるアンダークラスと呼ばれる階級として、管理されることになるだろう。これが、冷戦以降に顕在化した戦時管理体制にほかならない。

京極夏彦『鉄鼠の檻』(講談社文庫)

 「つまり芸術なんてものは何でもええ訳ですわい。綺麗だと思えば埖(ごみ)でも綺麗だし、素晴らしいと思えば屎尿(しにょう)でも素晴らしい。絶対美だの、絶対芸術だのなんてものはないのですな。主観の問題でしかない。だからと云って誰にも理解されんものを作りよる人は、矢張り芸術家とは呼ばれますまいな。それは当然だ。しかし、ひとり二人しか褒めんようなうちは、こりゃまだ芸術とは呼ばれん。じゃあ大勢が良いと思うもんが芸術なのかちゅうと、そりゃそれでいいが、他人に好まれるものばかりを多く作る者が芸術家と云われりゃこりゃ少しばかり変ですわなあ――」
 今川の返答を待たずに老師は続けた。
 「芸術と云うのは、こりゃ社会だの、常識だの、そう云う背景があって、それと如何に折り合いをつけるかと云う問題でしてな。社会対個人みたいな図式がないと芸術にはなり難いようですわい。こりゃいずれにしろ愚僧達には無関係でな。禅匠は美しく造ろうと思ってなどおらん。芸術やろうとも思っていない。禅匠の造るものは説明でも象徴でもない、勿論理屈は要らん。絶対的な主観ですな。世界をぽんと鷲掴みにしてどんと出すだけでな。他人がそれを美しいと感じることがあったとしても、造った禅匠には無関係だ。世間様がそれを芸術と呼ぼうが美術と呼ぼうが知ったことじゃあないのですわい」
 「ははあ――」
 今川はだらしなく口許を緩ませて、丸い目を見開いている。まるで自我崩壊したような表情であるが多分今、彼は猛烈に考えている。
 「喝!」
 「は」
 老師が一喝した。今川は――まるで夢から覚めたように戻って来た。
 「考えることはありませんぞ。解ろうとしてもいかん。あんたもう解っている。言葉にしようとすると、逃げて行きますぞ」

2006年08月14日

福田和也・柄谷行人 対談

福田 僕は20代前半ぐらいに、バタイユとか、ブランショとか、前期ハイデガーとかを、けっこう熱心に読んでいたときに、革命ということを考えていくとどうしたって、バタイユは特にそうですが、ファシズムになってしまうんですよね。だから逆に、革命というためにはファシストであらねばならないということが非常によくわかってしまって、その認識に誠実であるためにファシストと称しているんですけれど。
柄谷 たぶん革命という概念でやると、ファシズムになるでしょうね(笑)。みんな、それに気づいていないだけで。

          福田和也『スーパーダイアローグ』より

2006年08月19日

魚住昭『特捜検察の闇』(文春文庫)より

 当事者主義という言葉をご存じだろうか。民主主義国家における裁判制度の基本構造を表した言葉である。法廷で原告と被告の両当事者が対等に弁論を闘わせ、裁判官は公平な立場から審判を下す役割に徹することを意味している。
 この当事者主義は、民事であれ刑事であれ、基本的には変わらない。刑事裁判では検事が国家の利益を代表して被告を訴追し、被告側には弁護士がつく。民事と違って一方の当事者である検事側が強制捜査権という武器を持っているため圧倒的に有利な立場にあるが、その当事者間の格差を是正するため「疑わしきは被告人の利益に」という大原則がある。
 こうした当事者主義の精神に貫かれた憲法や刑事訴訟法が裁判官に期待するのはどちらにも偏らない中立公平な判断であり、検事に期待するのは徹底した真実追究の精神である。そして法曹三者のうち唯一国家組織に属さない弁護士に期待するのは、どこまでも被告人の利益を擁護し、不当な国家権力の行使に異議を唱える在野精神と言っていいだろう。この法曹三者がそれぞれの役割を十分に果たして初めて民主主義の法システムはバランスよく機能する。
 司法の理念とされる「公正と透明」は、中坊の言うように弁護士が「公益的な職務」を義務的に行うことで実現されるわけではない。むしろ弁護士に求められるものは、たとえ「公益」に反したとしても、そして被告が血も涙もない極悪人であったとしても、どこまでも被告の権利を擁護する徹底した姿勢である。
 いま法曹界で進行しているのは、この当事者主義の精神の空洞化だ。弁護士たちが自らの在野性をかなぐり捨て、不良債権回収の「国策」に吸い寄せられたり、捜査当局を利する「刑事弁護ガイドライン」の創設を言い出したりするように、検事たちもまた真実の追究という自らの職務を忘れて単なる国策の遂行者に成り果てようとしている。

2006年10月25日

スガ秀実『1968年』(ちくま新書)より

 言うまでもなく、「民主か独裁か」という問いの答えは、誰にとっても「民主」ということでなければならない、ということである。
 しかし、このような誰もが答えを知っている問いは、むしろ、問い自体が間違っていると考えるべきではないのか。そして、そうした間違った問いが「正しい」答えをすでに隠して問われてくる時は、「間違った」答えを出してやるのが正解というものである。その正解は、「然り、独裁である」であり、より詳しく言うなら「プロレタリア独裁」と答えてやるのが真っ当なことのはずなのだ。

2006年11月05日

森達也『こころをさなき世界のために』(洋泉社新書y)より

 重要なことは、当事者への想像力と同時に、非当事者であることの自覚です。ところがいまの日本社会は、誰もが被害者の痛苦を表層的に共有したような錯覚に陥って、「許せない」とばかりに、加害者を憎悪します。要するに被害者への過剰な感情移入が、いつのまにか主語を社会や国家に委ねていることに気づかない。つまり誰もが当事者の気分でいる。これでは連鎖は続きます。被害者や遺族が加害者を憎むことは当たり前です。僕だってもしも家族を殺されたなら、法の裁きを待つ前に犯人に復讐するかもしれない。当事者ですから。でもその憎悪を、非当事者が引き受けてはならない。

2007年02月07日

西部邁・宮崎学『酒場の真剣話』(表現者2005年12月号別冊)より西部発言部分

 天皇の唯一と言いたくなるくらいの機能というのは、一億二千六百万人に共通の時間認識を、時代という名の時間認識を与えることだと。渡辺昇一さんのように、昭和天皇は賢帝であられた、二・ニ六もおさめたし大東亜戦争もおさめた、というようなことは、僕にとってはどうでもいいことなんだね。そんなこといい始めたら、大正天皇は愚帝であられたとか(笑)、ひょっとしたら脳梅毒だったって説もあるってことまで議論しなきゃいけなくなる。
 もちろんそういうことを議論しないといけないレベルもあるんだけど、その前に天皇が賢かろうがバカであろうが何であろうが、やっぱり天皇という存在によって、天皇はある時に生まれてある時に死す、人間、それと同じように、それに象徴されるように、時代もある時に生まれてある時に終わる。というふうにして年号の最大の機能っていうのは、人間が生まれて死ぬと(いう)ことを比喩するようにして時代が生まれて終わる、ということを示す点です。人間で言えば、自分は死ぬけれども自分の子孫がいる。別に血統でなくてもいいんですけどね。自分と関連を持った人たちが自分の死後もまだまだ生きてるっていうことで、人間の歴史的連鎖っていうものが、天皇によって象徴されている。言い換えれば、死すべき者としての人間たちが自分たちの時代に死生観上の意味を付与するということです。そういう意味で、ものすごい抽象的な機能を持ってるんだと思った時に天皇制を否定できなくなった。

      ※      ※      ※

 西部センセイは、私(外山)自身が獄中で“転向”するはるか以前から、私がほとんど唯一好感を抱いていた保守論客である。ここでセンセイが述べていること、これは、私が獄中で天皇制を肯定することに決めた際に組み立てたロジックとまったく同じで、読んでちょっとびっくりした。
 この対談本の中では、イタリア・ファシズム肯定論など、他にもびっくりするような符合がいっぱいあるのだが、とくにこの箇所、「天皇」を決して「信じて」いるわけではない、つまりナショナリストとは発想を異にするファシストが天皇制を肯定する時に、唯一依拠できる論理だと思う。

2007年02月20日

ジェリー・ルービン『DO IT』より

 冒険を抹殺する社会は、その社会自身を抹殺しようという唯一の冒険を生み出す。

2007年02月22日

ムソリーニの名言

 我々はお上品な選挙戦をやっているのではない。
 革命をやっているのだ。
  (ファシスト党の暴力的な選挙戦術を他陣営から非難されての回答)

2007年06月03日

予習

 http://www.tbsradio.jp/life/
 出演のため、数時間前に東京入りした。
 予習というかなんというか、メイン司会者の鈴木謙介氏の著作をこのかん2冊ほど読んだので、久々に「いいこと云う人たち」カテゴリーで引用。
 他の出演者、津田大介氏の『誰が「音楽」を殺すのか?』と仲俣暁生氏の『「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか』もちょっと前に入手したのだが、時間がなくてそれぞれ半分ほどずつしか読めていない。本番まであと何時間かあるが、私、本を読むのはけっこう遅いから間に合わないかもしんない。

          ※          ※          ※

 「監視社会」は「監視国家」と異なり、集中的な権力が個人の身体を監視するようなものではなく、遍在するデータベースがその主体となっており、また、私たち自身がその監視を望み、支えているものである。さらに、監視社会における監視は、ヒトによるヒトの監視ではなく、マシンによるデータの監視という事態である。すなわち、統一的な個人の情報を把握することではなく、ある場面において必要な情報のみが監視されているということだ。個人情報がデータベースに管理されることで、よく言われるようなプライバシーの問題は生じうるが、それはあくまで監視そのものへの批判を呼び出さず、監視の運用を巡る是々非々論にしか帰結しない。
   (鈴木氏『カーニヴァル化する社会』より)

 アンソニー・ギデンズのような社会学者は、後期近代を生きるためには、ここで言う消費社会的シニシズム、つまり自分の選択は自分があえて選んだものであることを自覚し続けなければならないと主張している。しかしながら私は、現代社会において、そうした「あえて」の契機を欠いたまま、内発的な動機付けを高めていくシステムが、様々に編み上げられつつあるのではないかと考えている。
   (鈴木氏『ウェブ社会の思想 <遍在する私>をどう生きるか』より)

          ※          ※          ※

 そんなわけで今夜の深夜1時~4時、TBSラジオということで、よろしく。

2007年07月12日

熊本帰還

 昨日午後いきなり釈放され、すぐに鹿児島滞在中のスタッフに連絡をとり、拘置所前まで迎えにきてもらった。とりあえず記念写真(?)を撮っておくためである。
 夕方から鹿児島市内の友人知人と合流し、釈放を祝ってもらった。
 そうそう夕方5時半以降、充電の切れかかっていた携帯を最寄りのソフトバンクの店に預け、そのままうっかり閉店前に取りにいくのを忘れてしまったため、昨夜私に電話をかけた人もいくらかいただろうが、そんなわけで出られず申し訳ない。
 携帯を置いたまま熊本に戻るわけにもいかないので、この日はスタッフともども隼人町の実家に泊まることにした。
 ついでにせっかくだから一昨年の霧島市議選以来、私を面白がってくれているオジサンが国分市の中心街でやってる飲み屋に、久々に顔を出すことにした。都知事選の2、3ヶ月前に寄って以来だから、報告もかねて。
 朝4時近くまで痛飲。
 獄中では当然酒など飲めないから(実は絶対に飲めないということもなく、松本哉君なんかは獄中で酒を“密造”して飲んだらしいが、そういうところが松本君は本当に偉いと思う。マジメな私にはとてもマネできない)、実に1ヶ月ぶりにしかも大量に飲んだのに、とくに泥酔することもなく、意外とおれ酒強いなと思う。もちろん、釈放されるなりコンビニでタバコを購入し、この日のうちに2箱吸ってもしまった。
 隼人町の実家に戻ると弟がまだ起きていたので、しばし歓談。

 昼前に起きて、久々に頭を剃る。
 携帯を取りに鹿児島市経由で、スタッフとともに夕方4時半、熊本に到着。
 熊本の関係者はここのところ別の件で忙しく、大半は熊本市内に不在とのことで、出所祝いは明日か明後日にでも改めてということに。
 今夜はさっそく「仕事」のつもりだったが雨が降ってるのであきらめる。
 ストリート・ミュージシャン的にはいい時期の投獄ではあった。逮捕されたのはちょうど梅雨入りの直前だったし、釈放されてみるとおそらくあと数日で梅雨明けというタイミング。
 それからおそらく今夜のうちに、熊本市議選を熱心に報道してくれたネットラジオFMCの取材を受けることになる。たぶん生出演ではなく、近日中に編集してアップということになるだろうから、そちらも期待して待て。

 しかし国家権力もひどいことをする。
 自分たちの勝手な都合で人を熊本から鹿児島までいきなり拉致しておいて、「もういいよ」となったら自分で熊本まで帰れと云う。
 大量の荷物(差し入れてもらった本など)も自力で持ってけと云う。いかに持ち運びに苦労する量の荷物だったか、「我々少数派」のブログに掲載した写真を見てほしい。
 納得いかない。

2007年10月10日

檜垣立哉『生と権力の哲学』(いいこと云わない人たち①)

 過去の文章など整理してたら、こんなのが出てきた。
 去年の夏ごろ気まぐれに書いたんだと思う。
 ちょっと品がないかなとも思うし、スタッフには「ケンカ売りすぎでは?」と云われたが、それなりに大事なことを書いているので、公開しておこう。

          ※          ※          ※

 ちくま新書から最近(06年5月)出た、檜垣立哉という人の『生と権力の哲学』という本を斜め読みした。
 表紙に「『正義』と『慈愛』に溢れた社会であればあるほど、そこでの善意の構成員は、異常者を認知し、変質者を特定し、清潔にして正常な社会を維持し防衛することで、ますます<生権力>の働きを担う者となる。……ではそこで、権力に『抵抗』することは不可能なのだろうか」とある。これはおそらく本文からの引用であろう。
 表紙をめくると、ソデにはこうある。「権力とはわれわれの外にあって、人々を押さえつけるようにだけ働くものではない。それは、『見えない』かたちで動き、われわれを『殺す』よりも『生かす』ものとして働く不気味なシステムなのだ。厳密な実証的研究を踏まえながら、権力論に新たな位相をひらいた知の巨人、フーコーの思想を中心に、その課題を現代的な場面で捉えなおすべく苦闘するドゥルーズ、アガンベン、ネグリらの問題意識とその論理を丁寧に読み解くことによって、グローバル化し、収容所化する現代世界の中で、『ポジティヴ』に戦い続ける希望を提示する」とある。こっちは編集者が書いた宣伝だろう。
 要するにまあ、昨今のインテリ左翼があちこちで云い散らかし、書き散らかしているような話を、コンパクトにまとめただけの本であることは、そもそもタイトルを目にしただけの段階で容易に想像できることだ。もちろん、入門書なのだから独創性などなくていい。
 で、こんなことが書いてあったりする。

          ※          ※          ※

 ……もともと明確であった公的なもの(ビオス)と私的なもの(ゾーエ)との区分が崩れ、公的であるのか私的であるのかをはっきりとは分類できない、きわめて不分明な地帯(最近の言葉でいえば「親密圏」と重なるもの)が、新たな政治の争点になっていくのである。
 ……暴力の問題が、セクシャル・ハラスメントやドメスティック・ヴァイオレンスという、公と私が入り交じった領域で典型的に見いだされること、あるいはネグリがいうように、戦争が国家間での、いわば公と公の交戦であるというよりも、むしろ内戦やテロという内密な暴力にとって代わられているということ、これらもこうした事態と関わりのあるものだろう。……

          ※          ※          ※

 昨今のインテリ左翼どもが、いかに混乱した認識をもって、わざとなのか単にアタマが悪いからなのか、その混乱を詐術的な論法で糊塗していくかが、はっきりと露呈している箇所である。もしこれを読んで、「なんかおかしい」と感じることすらできないないようでは、あなたもこの著者の同類、つまり昨今のダメなインテリ左翼の一人だということだ。もちろんそんな連中に、「権力に『抵抗』することは不可能」だし、「グローバル化し、収容所化する現代世界の中で、『ポジティヴ』に戦い続ける希望を提示する」ことなどできるわけがない。
 公的な領域と私的な領域が曖昧にされ(「なり」? いや「され」だ)、そこに発現する「暴力」が現在、「権力」とかそれに対する「抵抗」とかを考える時に最重要なテーマとなっていることはまったく事実である。セクハラやDV(やここには挙げられていないがストーカー)の問題がその典型的な事例であることも、まったくそのとおりである。
 だが、問題設定というか、位置づけ方がまったく間違っている。
 ここではまるで、私的な領域である民間の男女関係の中で男個人が女個人に対して行使する「暴力」が、アメリカの「反テロ戦争」に典型的な、国家間の衝突ではない形で展開している現代の戦争において行使される「暴力」と同質の問題であるかに語られている。
 違うだろう。
 いや、たしかに両者は同質の問題である。
 しかしその意味は、「反テロ戦争」的な国家権力の発動形態と、単なる民間の個人的な男女間のイザコザに警察や裁判所を介入させたり、そのための新規立法をおこなったりするという国家権力の発動形態とはまったく同じである、ということだ。
 アメリカが「テロリストの国際ネットワーク」に対して行使している「暴力」を、民間の男個人が民間の女個人に対して個人的に行使する「暴力」ではなく、国家権力が民間のセクハラ男個人やDV男個人(やストーカー男個人)に対して行使する「暴力」とこそ等置しなければ、問題の本質(「両者は同質の問題である」ということ)は見えてこない。
 そして、まるで国家権力が民間の反体制組織に対して行使する「暴力」と、民間の男個人が民間の女個人に対して個人的に行使する「暴力」とが同質であるかのような詐術的論法を用いて、あろうことか後者に対する国家権力の介入を容認(というよりもむしろ積極的に要求)するフェミニストどもは、それこそ「戦争が国家間での、いわば公と公の交戦であるというよりも、むしろ内戦やテロという内密な暴力にとって代わられている」という今日的事態を推進する勢力であり、このような悪質なフェミニズム的問題設定を空気のような自明の前提であるかにしか思考できない檜垣のような今日的インテリ左翼どもも、やはり同様に今日の「内戦」的事態の推進勢力の一部を成している(少なくとも、「反権力」の思想や運動に誤った問題意識を持ち込み、悪い影響をもたらしている)。奴らがいくら主観的には「反権力」の立場に身を置いているつもりであっても、客観的には今日的な権力に奉仕しているのである。
 何度だって繰り返してやるが、そんなふうに権力側に事実として身を置いている連中が、「権力に『抵抗』することは不可能」だし、「グローバル化し、収容所化する現代世界の中で、『ポジティヴ』に戦い続ける希望を提示する」ことなどできるわけがない。
 あるいはソデにあった「権力とはわれわれの外にあって、人々を押さえつけるようにだけ働くものではない」というのは檜垣のような今日的インテリ左翼の、無意識的自己批判(無意識だから結局は自己正当化)なのかもしれない。少なくとも私にとっては、「権力とはわれわれの外に」厳然と存在するものとして、ますますくっきりとした輪郭をもって感じられている。檜垣のような今日的インテリ左翼が「われわれ」の一員でないだけの話だ。(もちろん私はファシストであるから、現在は「われわれの外に」ある権力を、いずれ「われわれ」の側に奪取する以外に問題解決の方法はないと考えているのである)
 まさに表紙にあったとおり、「『正義』と『慈愛』に溢れた社会」で、檜垣のような「そこでの善意の構成員は」、セクハラする奴とか、奥さんを殴る奴とか、あるいはストーカーする奴などの「異常者を認知し、変質者を特定し」、セクハラやDVやストーカーのない「清潔にして正常な社会を維持し防衛することで、ますます<生権力>の働きを担う者となる」のである。
 だまされてはいけない。

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