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2005年10月 アーカイブ

2005年10月09日

福田和也『乃木坂血風録』(新潮文庫)

 女の代議士ね。いいんじゃないの、二、三人ならいても。

2005年10月10日

スガ秀実『JUNKの逆襲』所収「『二十一世紀の資本主義』における文学」

 今日の教育問題の多くは、日本の大学に学生運動がちゃんとないというところに淵源するんです

三浦展『ファスト風土化する日本 郊外化とその病理』(洋泉社新書y)

 古い名曲喫茶に行けば戦前の文化人の雰囲気がある。古本屋に入ると一九六〇年代の左翼学生の名残がある。雑貨屋には七〇年代のヒッピーの流れがある。ライブハウスには八〇年代のパンク魂がいまも息づいている。商店街には古いパン屋、豆腐屋、畳屋、葬儀屋などが残っている。もしかしたら、嫌な時代も含めた多様な時代の記憶があり、それらが重層的に堆積している。古い家のはがれたペンキか壁の落書きのように、それらの古い時代の名残が街のそこここに透けて見える。そういう多様で重層的な都市の記憶は、ファスト風土的郊外には期待すべくもない。

相見英咲『倭国の謎 知られざる古代日本国』(講談社選書メチエ)

 一〇代崇神天皇の時、皇室はついに〈倭国=日本国〉の主人となった。皇室=大和朝廷の考え方は一風変わっていた。前代の王朝の非を鳴らして自らの正当性を主張するのではなく、自分の氏以外の〈倭王=日本国王〉など、これまでに存在しはしなかった、という考え方を展開し始めた。即ち、一方では前代の王家邪馬台国の情報を後に伝えることを禁止し、また一方では、倭王ではなかった九代開化天皇までの事績を廃棄し、これらの伝承も許さなかった。(略)
 皇室・朝廷にとって大事なことは、〈倭国=日本国〉は、これまで唯一皇室が統治してきたし、今後も唯一皇室が統治し続ける、という考え方を疑問の余地のないものとして普及徹底させる、ということであった。即ち“万世一系の天皇観”であるが、これが確かでさえあれば、個々の天皇が君子であろうが暴君であろうが、長い歴史の中ではどう伝えられても良いこと、と考えられた。従って、この万世一系の天皇観の下、記紀は天皇が実際に暴君であった場合、少しも隠すことなく、あからさまに描いている。
 (略)書紀の編著者たちは、皇室にとり不都合な話であっても少しも隠そうとしていない(外交関係はそうでもないが)。「史料のいう所を素直にとり入れようとし」ており、この態度は「できるだけ広く史料をとり」、「諸説の共存(多くの一書の採用)を認める」ところにまで至っている。書紀がこのような客観的な態度をとれたのは、逆説的な話だが、なんと“万世一系の天皇観”=皇国史観のおかげなのである。

鴻上尚史・デーモン小暮対談

 鴻上――悪魔って、SEXするのかな。
 デーモン――悪魔がSEXを創ったのだ!
      (『鴻上尚史対談集 音楽遊戯』より)

森達也『「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔』(角川文庫)

 破防法弁明で麻原の陳述に立会人として参加した浅野教授の話では、最後に発言を求められた麻原が、公安調査庁受命職員に向かって、「破防法を適用しなさい。しかしオウム以外の団体には今後ぜったい適用しないでほしい」と述べたという話が興味深かった。当時のメディアはこの発言についてはまったく報道していない。唯一新聞一紙だけが、具体的な内容には言及せず、「最後に麻原被告が発言した」とだけ記述していた。僕も今日まで、彼がそんな発言をしていたことなど知らなかった。伝えるべきことの取捨選択は、確かに報道する側の判断だ。しかし誰もが関心を持つ麻原の発言を、全メディアが揃って封殺することは、ある意味で虚偽の報道以上に悪質だ。

東浩紀・大澤真幸『自由を考える 9・11以降の現代思想』(NHKブックス)

大澤 つまりこうです。ここに、世界最大規模の個人情報のデータベースがある。なぜあるか問いただしてみると、その存在を正当化するにたる理由らしきものは、ほとんど見出せない。「住民票が取りやすいだろ」とか言われるわけで、それはそうですが、あまりに些細で、これほどのデータベースが存在している理由としては、無に等しい(笑)。そこで、その過剰性を説明すべく、批判側としては、表現の自由とか、今はない将来の懸念とかをもち出すことになるわけです。これは、掟の門を前にして、こんなふうに考えるのと同じことです。どうしても、門のなかに入れてもらえない。これほど入れてもらえないということは、よほど大事なものが門の向こうに隠されているに違いない、と考えたくなる。でも、そう考えたら、掟の門と、ほんとうの恐ろしさは、かえって消えてしまう。門の向こう側は、ほんとうに何もないのです。これは、ウィンドウズの横行がマイクロソフトの陰謀だ、みたいな話と同じなんですよね。つまり、ウィンドウズの支配に、説明不能な脅威を覚える。その脅威を、何とか、古典的な設定、古典的な権力や支配のフォーマットのなかで理解しようとする。どこかに悪いやつがいて世界支配でもねらってくれているとわかりやすくなるわけです。そこで、ビル・ゲイツの陰謀だということになると安心するわけです。しかし、こういう陰謀的な理解は、不安を喚起しているようでいて、ほんとうは、真の脅威を馴致して、不安を解消しているわけです。権力の実際の作動はすでに新しいのに、それに対する批判的な理解は、これを、古典的な権力のほうに問題を回収して解決しようとする。でも、それは起きていることに対して古典的に対処しているだけなので、ほんとうの意味での対抗策にはなっていない。

スガ秀実『JUNKの逆襲』所収「ランボーvsビンラディンは可能か」

 一九六八年以降の世界的な景気波動の下向傾向は、すでにその社民的福祉主義を不可能にしつつあったし、八九/九一年の冷戦体制の崩壊は、決して先進資本主義国リベラリズムの「勝利」(歴史の終焉!)ではなく、その破棄と別途(戦時体制!)への政策転換を決定的にするものであったと見なすべきである。元来が軍事テクノロジーとしてあったITが民間へと流入してきたことを目して、オプティミスティックな「IT革命」なる観念が流布したが、それは同時に、市民社会の戦時体制化とも捉えねばならないのではあるまいか。
 「IT革命」に象徴されるところの、新たな資本主義段階(いわゆる後期資本主義)は、国民を――たとえば、兵士として、あるいは労働力として――総動員する必要はない。それは相対的過剰人口でさえなく、絶対的な過剰人口である。SF的に言えば、資本はもはや(ほとんど)労働力を必要とせず、戦争も(ほとんど)兵士を必要としない。しかし、過剰に存在する人間は殺すわけにはいかないのだから、彼らをいかに管理し隔離しておくかが問題となる。それは、いわゆるアンダークラスと呼ばれる階級として、管理されることになるだろう。これが、冷戦以降に顕在化した戦時管理体制にほかならない。

京極夏彦『鉄鼠の檻』(講談社文庫)

 「つまり芸術なんてものは何でもええ訳ですわい。綺麗だと思えば埖(ごみ)でも綺麗だし、素晴らしいと思えば屎尿(しにょう)でも素晴らしい。絶対美だの、絶対芸術だのなんてものはないのですな。主観の問題でしかない。だからと云って誰にも理解されんものを作りよる人は、矢張り芸術家とは呼ばれますまいな。それは当然だ。しかし、ひとり二人しか褒めんようなうちは、こりゃまだ芸術とは呼ばれん。じゃあ大勢が良いと思うもんが芸術なのかちゅうと、そりゃそれでいいが、他人に好まれるものばかりを多く作る者が芸術家と云われりゃこりゃ少しばかり変ですわなあ――」
 今川の返答を待たずに老師は続けた。
 「芸術と云うのは、こりゃ社会だの、常識だの、そう云う背景があって、それと如何に折り合いをつけるかと云う問題でしてな。社会対個人みたいな図式がないと芸術にはなり難いようですわい。こりゃいずれにしろ愚僧達には無関係でな。禅匠は美しく造ろうと思ってなどおらん。芸術やろうとも思っていない。禅匠の造るものは説明でも象徴でもない、勿論理屈は要らん。絶対的な主観ですな。世界をぽんと鷲掴みにしてどんと出すだけでな。他人がそれを美しいと感じることがあったとしても、造った禅匠には無関係だ。世間様がそれを芸術と呼ぼうが美術と呼ぼうが知ったことじゃあないのですわい」
 「ははあ――」
 今川はだらしなく口許を緩ませて、丸い目を見開いている。まるで自我崩壊したような表情であるが多分今、彼は猛烈に考えている。
 「喝!」
 「は」
 老師が一喝した。今川は――まるで夢から覚めたように戻って来た。
 「考えることはありませんぞ。解ろうとしてもいかん。あんたもう解っている。言葉にしようとすると、逃げて行きますぞ」

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