美術作品二つ

 某月某日。
 あの外山恒一が、何人かの「前衛芸術家」と「コラボレーション」で美術イベントをやっているという。
 先日届いた案内のハガキは、やはり外山らしいというか、なかなか面妖な代物ではあった。
 極太明朝体で大きく、「前衛芸術展」とある。その下に並んだ4人の名前は、今回作品を出展している美術家なのだろう。どのような作品なのかの説明はない。
 続けて開催期間と会場までの簡単な地図があり、一番下に、「主催者より」として外山のメッセージが一言ある。
 「時間の無駄なので、来ないでください」
 読んで「ははあ」とピンと来た。これは「退廃美術展覧会」だろう。
 ヒトラーが政治家に転身する以前、画家を志していたことはよく知られた話だが、その保守的で古めかしい画風は、さまざまな前衛芸術、実験芸術がセンセーショナルに取り沙汰されていた時節柄、まったく認められることがなかった。その恨みを晴らすことが目的であったのかどうか、政権を獲得したヒトラーは、「退廃美術展覧会」と銘打った大々的な美術展を開催、それら当時の前衛芸術作品をさらしものにして嘲笑したのである。前衛芸術を単に禁圧した同時代ソ連のスターリニズムに比して、さすがヒトラー、同じ弾圧するにしてもその手法に芸がある。
 外山が最近、ファシストを自称していることは伝え聞いている。きっと今回のこの企画も、ヒトラーの故事にヒントを得たものだろう。
 わざわざ足を運ぶまでもなく意図は見え見えなので、行く必要もないかと思ったのだが、よく考えると行かなかったら行かなかったで、それはそれで外山の目論見どおりということにもなる。最初から外山は「来るな」と云っているのだから。
 外山め、なかなか姑息な手を使う。行ったら行ったでこれまた外山の術中にはまるのだと分かっていても、これでは行かざるを得ないではないか。
 私はおそらくかなり不機嫌な表情で、会場へ向かった。主に地元の美大生やアマチュア芸術家が小規模な個展やグループ展のために使用する小さなギャラリーで、私も訪れるのは今回が初めてではない。
 着くと案の定、入り口の扉は閉まっていた。窓がないから、中の様子も外からはまったく分からない。
 扉には貼り紙がしてあって、「『前衛芸術展』開催中。見る価値なし」と書いてある。
 ここで帰ったら負けだ。帰らなくてもどうせ負けなのだが、私としては不機嫌な表情をさらにいっそう不機嫌にして、とにかく扉を開けて中に入るしかない。
 と、鍵がかかっている。
 まさかそこまでやるとは。
 しばらく扉をガタガタやっていると、まもなくカチリと鍵の外れる音がして、扉が外側へ細く開いた。扉を開けたのは、全身を黒い服で包んだ年齢不詳のスキンヘッド。外山恒一だ。
 「何の用です?」
 白々しく外山が訊いてきた。
 「前衛芸術展とやらを見に来たに決まってるでしょう。わざわざ来たんだから、入れてくださいよ」
 押し入ろうとすると、まあまあと制止された。
 「案内状は届いてますか?」
 「届きましたよ」
 「じゃあ、時間の無駄だから来ないようにって注意書きも読んだでしょう」
 「読みましたよ」
 「だったら来なきゃいいのに。こんなくだらないものを見物するぐらいなら、あなたにも他にやるべきことがいくらでもあるんじゃないですか?」
 「ただの気まぐれです。いいから中に入れてください」
 「どうしても入れろと云うなら入れないこともないですが、ほんとに時間の無駄ですよ。悪いことは云わないから、帰った方があなたのためです」
 「余計なお世話です」
 「あなたのためによかれと思って云っているんですよ。いまどき『前衛』なんて云って気取ってる芸術家にろくなのはいないんですから。ヘタに影響でもされたらあなたの人生は台なしです。取り返しがつかない」
 「しつこいなあ。とにかく私は中に入りたいんです」
 「そうですか。ほんとに困った人だ。どうせ無料ですし、後で『カネ返せ』なんて云われる心配もありませんから、そんなに時間を無駄にしたいんであれば、勝手にしてください。まあこれでカネなんかとったら詐欺ですけどね、犯罪ですよもう」
 ブツブツ云いながらもようやく外山は私を会場に入れてくれた。
 展示されていた4人の「前衛芸術家」の作品は、どれもそれなりの出来で、普通に鑑賞できるのであればまあ来てよかったかなと納得できる水準には達していたが、やはり「普通に」は鑑賞させてもらえないのである。
 会場内には私の他にも数組、先客がいて作品を鑑賞しようとしていたが、外山が、私を含めそれら客の間を忙しく動き回って、
 「どうです、云ったとおりでしょう。まったくくだらない。こんなものを作って一体世の中の何の役に立つというんでしょうね」
 「これなんかちょっと面白いかもしれませんが、それだけです。面白いからなんだと云うんでしょう。そういう面白主義みたいなものは、深刻でマジメな芸術が世の中の主流だった時代に、それに対するアンチテーゼとしてかろうじて意味を持ったにすぎません。今のこの状況でこれをやるのは単に堕落です。いくらふざけても誰からも怒られたりしない時代に、ふざけたって何にもならんでしょう。何の緊張感もない。それにこの程度の面白さなら、ハリウッドの超大作でも観た方がよっぽど満足できますよ」
 「さあもうここにいても無駄だってことは充分分かったでしょう。とっとと帰ったらどうです」
 「まだ見てるんですか。だいたいあなた方もあなた方だ。あなた方みたいなのがいるから芸術家が甘えるんです。どうせこういうのをわざわざ見にくるおれってちょっと個性的?とか思ってるんでしょ。全然個性的じゃないです。私に云わせればあなた方なんかただの俗物ですよ」
 とまあ、次から次へと作品に、果ては私たち鑑賞者にまで悪態をつき続けるのだ。これでは落ち着いて作品など見ていられない。
 たまりかねた客の一人が、よせばいいのについに外山に食ってかかった。外山の思う壷だ。果てしない論争が始まる。最初のうちは、しめしめこれで私の方は外山に邪魔されず、ゆっくり見たいものを見ることができると安心したが、なにしろ会場はそんなに広くはない。論争の中身は私にも丸聞こえだ。外山は時々面白いことを云う。はっきり云って、主張の内容的には外山の方に分がある。ついつい論争に聞き入ってしまって、結局は落ち着いて鑑賞などできやしない。
 さすがにうんざりして、帰ることにした。
 外に出ようと、入ってきたのと同じ扉を開けると、外山が気づいて論争を中断し、私の方へ駆け寄ってきた。
 「やっと分かってくれましたか。いいことです。とっとと帰ってください」
 私は受け答えをするのも面倒で、黙って外に出た。
 「人生には限りがあります。あなたにはきっと他にやるべきことがあるはずです。もう二度とこんなところに来てはいけませんよ。じゃあ」
 そう云うと外山はニヤリと笑って扉を閉めた。カチリと鍵のかかる音がした。
 私はたまらなく不愉快な気持ちで家路についた。

 某月某日。
 あの外山恒一が個展をやっているという。
 今度は誰との「コラボレーション」でもない。会場には、外山の作品だけが展示されているはずだ。先日あれほど他人の「前衛芸術」をケチョンケチョンに誹謗中傷していた人間が、いったいどんな「作品」を公開しているものやら。
 外山のことだから、何のことはないただの「オブジェ」があるだけ、なんてことはないだろうが、たいしたものでなければそれこそケチョンケチョンに酷評してやろうと、私は少し意地悪な気持ちで会場へと足を運んだ。
 入り口には、「外山恒一個展『私は無実だ』」と大書した横断幕がかけられていた。
 私はイヤな予感がした。
 まさかかつて外山が展開し、そのため裁判官の心証を悪くして「ほぼ無実の罪」で投獄されるに至ったという、あの法廷パフォーマンスの「回顧展」のようなものではないだろうな。そうだとしたら、拍子抜けだ。かの裁判に対する外山の見解そのものの当否はともかくとしても、いやしくも「前衛芸術」の個展としてはこれほどつまらないものもない。
 何はともあれ、中に入った。
 イヤな予感は外れていた。もしかすると、「私は無実だ」の横断幕は、外山の過去の活動をある程度知っている私のような人間をわざとミスリードする、計算づくの軽いブラフだったのかもしれない。
 何の装飾もない無人の室内には、ポツンと一台のコピー機が置かれていた。その上方、壁面にプレートがかかっている。「これは犯罪ではない」。どうやら今回の「作品」のタイトルであるらしい。
 コピー機はすでに電源が入れてある状態で、書店などにあるポップのような形状のものが操作パネルの上に立っていて、手が描いてある。その人差し指がスタート・ボタンを差している。「押せ」ということか。
 ボタンに手が伸びかけたが、ちょっと待て、まず何をコピーさせようとしているのか確かめようと、原稿カバーを開けてみてギョッとした。
 一万円札が、10数枚。
 私は焦ってキョロキョロと周囲を見回した。誰もいない。と思ったのは甘かった。天井に、監視カメラがある。
 さらによく見ればコピー機はちょっと古い型で、現在のそれのようにどうやら紙幣コピー防止の機能のないもののようであった。
 何が「これは犯罪ではない」だ! 立派に犯罪ではないか!
 いや、外山の「作品」自体は犯罪ではないのか。外山はコピー機の上に紙幣を置いただけだ。人差し指の絵も、「押せ」と云わんばかりだが、実際に「押せ」とはどこにも書いていない。たしかに外山は「犯罪」になる一歩手前で踏みとどまっている。なるほど「私は無実だ」「これは犯罪ではない」か。
 しかし私がこれを押してしまえば、私の方は立派な犯罪者ではないか!
 まったくとんでもないことを考える奴だ。
 私はほうほうのていで逃げるように会場をあとにした。
 帰途、そういえば今回の外山の「作品」では、マグリットの「これはパイプではない」、赤瀬川原平の「千円札」、さらには観客を当事者と化す前衛演劇の手法など、先行するいくつかの試みの引用・コラージュがおこなわれてもいたのだなと気がついた。
 悔しいが、なかなかやってくれる。

 とまあ以上2つの「現代美術作品」を思いついたのだが、それこそ「他にやるべきこと」はいくらでもあるし、実行に移すのはひたすら面倒であり、かといって「現代美術」の現状に鑑みれば圧倒的に水準の高いこれらのアイデアをただお蔵入りさせてしまうのもシャクである、ということで、こんな形で発表だけしておく。