獄中手記 福岡暗黒裁判 人権派を批判する物に人権なし

 
 私の事件は、とにかくややこしい。
 全体像があまりに複雑なため、弁護人に事情を説明することすら困難で、まして一般の人たちに対しては、どこからどう話し始めたらいいのかすら分かりません。
 これまで獄中で、何度も、すべてを上手く説明する文章を書いては捨ててきたのですが、そうして残ったもののうち、どうにか使えそうなのは、まだ前件で服役中であった今年(二〇〇三年)初めに弁護人を通じて外部の何らかの雑誌編集部へ送付するつもりで書いた文章です。
 それを元に、少し改良を加えたものを、以下、試みます。
 文中の「現在」は、前記のとおり二〇〇三年の初めごろです。

     ※

  名誉毀損罪に異例の実刑判決

 私の現在の立場は「余罪受刑者」である。受刑者として、すでに確定した懲役刑を務めつつ、別の事件での公判が続いている。
 確定した事件の罪名は傷害で、懲役十ヶ月の判決を受けた。裁判中の事件の罪名は名誉毀損。一審判決は懲役一年で、現在控訴中である。
 ここで、「おや?」と思う人があるかもしれない。名誉毀損事件で懲役刑の判決が出ることは滅多にないからである。弁護人が見つけてきた判例の範囲でも、一件を除いて他はすべて罰金刑が言い渡されている。その一件とは、右翼が街宣車を使って一ヶ月以上、「ホモ社長はやめろ!」などと騒いだ事件で、執行猶予付の懲役刑が言い渡されている。つまり、ことによると私の事件は、名誉毀損に対して実刑判決が出た最初の例かもしれないのである。
 それでは私の「犯行」は、件の街宣右翼よりも悪質なのか?
 私がやったのは、ある女性弁護士のスキャンダル暴露である。彼女の息子が、バイト先の同僚にこんな話をした。「母親に頼まれてテレクラをやっている。男性関係で悩んでいる女性を探して、(自分の顧客として)紹介するように言われている」。バイト先の同僚というのが実は私の友人で、私はこの話をそのまま自分のホームページに書いた(ことになっているが実は少し違う。後述する)。改めて訴えられてみると、その息子氏に「そんな話はした覚えはない」と否定されれば何の証拠もなくなってしまい、私は有罪というわけだ(ただし、私の友人は、私の書いた内容をさらに詳しく細部まで警察・検察で供述しているし、また息子氏も、私の友人とバイト先の同僚であったこと自体は認める供述をし、それらの調書はもちろんすべて証拠として法廷に提出された)。
 以上は、検察側が組み立てた事件のストーリーで、事実誤認を含んでいるのだが、仮にこのとおりだとしても、一年間も刑務所送りにしなければならぬほどの「重罪」か?
 付け加えればこの判決、実は求刑どおりなのである。つまり、何ひとつ情状の酌量をされていない。私が少なくとも主観的にはその内容を真実と信じ、正当な言論活動のつもりで〈暴露〉をおこなったことも、たしかに確実な証拠とは言えないまでも情報の出所はハッキリしており、伝達経路の分からない曖昧な〈噂話〉の類を根拠としたわけではないことも、犯罪の故意はないから当然匿名ではなく自分のホームページ上に自分の文章として堂々と発表していることも、また〈被害〉の規模も大マスコミとは比較にならない、せいぜい百人前後が読んだ「かもしれない」という程度であることも、〈被害者〉が地元法曹界で知らぬ者はない著名人であり半ば〈公人〉であることも、私が職業的ジャーナリストではなく(〈自伝作家〉もしくは〈私小説家〉ではあるかもしれないが)取材の訓練経験やノウハウ、法知識などをもたない立場にあることも、経済的被害等の〈実害〉もほとんど無視できるレベルであることも、とにかく私に有利な情状は法律についてほぼ素人である私が思いつく範囲でもざっとこんなにあるにもかかわらず、何一つ、採用されていないのである。
 名誉毀損の法定最高刑は三年なのだが、仮に検察が三年を求刑していたとしても、やはり求刑どおり三年の「極刑」が言い渡されたのではないか?
 (その後さらに調べたところ、名誉毀損罪で執行猶予付の懲役刑が言い渡されている事例は、いくらか見つかった。例えば、東京都知事選に際して対立候補を中傷する匿名つまり犯罪の故意が明らかな怪文書の発行元が、実は自民党東京都連事務局長という要職にある者だったことが発覚した事件など、それはやはり私の事件と比べてその内容・規模とも比較にならないものである。また、実刑判決が言い渡された例も一つだけ見つかった。フラれた腹いせに、その女性の顔写真を使った合成ヌードを偽造してその自宅周辺に大量に貼ってまわるなどしたという、どう考えても私の事件とはそもそも〈ジャンル〉の違う事例であった。)

  ありふれた痴話喧嘩にも実刑!

 すでに確定した傷害罪の判決について。
 懲役十ヶ月に値する傷害事件と聞いて、一体どれほどのケガを負わせたものと想像されるだろうか? ちなみに私はこれが初犯であり、それ以前には逮捕歴すらない。たとえ刃物を使用しても、また暴力団組員であっても、よほど重大な結果を生じないかぎり、傷害の初犯では通常、罰金刑か執行猶予付判決が言い渡される。
 さて、私はどんな凶悪暴力事件の被疑者だったのか?
 私は、交際していた女性を殴ってしまった。ケガの程度は、鼓膜が破れたというものである。もちろん、一ヶ月あまりで自然治癒している。
 これで、懲役十ヶ月。執行猶予なし。
 ちなみにこの事件で私は逮捕すらされていない。任意出頭、書類送検、在宅起訴。つまりは警察・検察ですら、身柄を拘束する必要を感じない軽微な事件と見ていたということだ。当たり前である。少々行き過ぎた痴話喧嘩でしかないのだから。そんな初犯在宅事件に対し、異例の実刑判決。

  本当の罪名は「法廷侮辱」である

 はっきり言って両事件とも、通常なら不起訴処分どころか、「警察官による説諭」で済まされても不自然でないくらいの、ショボいショボい〈犯罪〉である。それなのに、常識では考えられないような「重刑」が、私という特定の被告に対して、しかも二度。
 「疑惑の判決」である。
 タネを明かせば、実は簡単なことだ。
 傷害事件の法廷で、私は傍聴人を楽しませるためにさまざまのパフォーマンスをおこなった。例えば、一時間に及ぶ被告人本人陳述。原稿を、江戸文字書体でFAX用ロール紙に打ち出して巻物状にし、筒に入れて法廷に持ち込んだ。全長十五メートルほどになるその巻物をひもときながらの陳述で、読み終わった部分は私の足下でとぐろを巻いた。途中、自分の心境を託した流行歌の歌詞をいくつか引用し、その部分は〈メロディつき〉で朗読した。などなど。
 こうした法廷パフォーマンスが、裁判官を激怒させたのである。
 裁判官も人間だ、などと納得してはいけない。
 私のパフォーマンスは、たしかに非常識ではあったろうが、違法ではない。刑事裁判の法廷は違法行為を裁く場であって、非常識な言動に制裁を加える場所ではない。法廷侮辱だと言われればまったくその通りなのだが、だったら法廷侮辱の罪を堂々と問題にすべきである。通常ではあり得ないような常軌を逸した重刑を科すことで、プライドを傷つけられた裁判官が被告に報復するなど言語道断であり、法治主義も何もあったもんじゃない。
 もちろん判決文では、私のパフォーマンスについて一言も言及していない。単なるショボい痴話喧嘩を、世にも稀な凶悪暴力事件であるかにオドロオドロしく描写して、実刑に処す以外にないと結論づけている。その事実認定が妥当なら、そもそも在宅事件になどなってはいない。
 しかも、今回の名誉毀損事件の法廷では、私は一切、パフォーマンスめいたことはやっていない。淡々と、無罪を主張しただけだ。異常な量刑の背景にあるのは、単に私の法廷侮辱の「前科」を、わずか十数人の福岡地裁(刑事部)の裁判官は全員知っていたという事実だ。
 計一年十ヶ月の実刑。「法廷侮辱」はそれほどの「重罪」なのか?

  そもそもは冤罪ストーカー事件として始まった

 そもそも私はなぜ法廷を侮辱したのか、それを説明する必要があろう。面白半分としても、残り半分は真面目なのだ。例えば件の巻物状陳述書だが、形態の不真面目ぶりに対して、内容そのものは、私の事件の詳しい経緯や、法律・犯罪・恋愛などをめぐる私の考え方、さらにそもそも反省とは何なのか、といったことを大真面目に論じたものだった。
 「こんな裁判、オレは認めないぞ!」というのが私の気持ちだった。
 まず、傷害事件は限りなく冤罪に近いものだった。
 私が彼女を殴りケガを負わせたこと自体は、恥ずかしながら事実である。九九年三月の出来事だ。その件で、福岡市の中央警察署に任意出頭を求められたのは二〇〇〇年五月。実に一年以上を経てからのことだった。その彼女とも、とっくに別れていた。
 殴打事件について、ひととおり取調べを済ませると、刑事はおもむろに一枚の紙を取り出して私につきつけた。「これはおまえが書いたんだろう」。それは、一目見ただけで吐き気をもよおすような、ちょっと言葉では表現不可能な、気色の悪いシロモノだった。ところどころ巨大な真っ赤な文字で、卑猥な言葉が書き連ねてあるのがまず目に飛び込んでくる。ガマンして少し読んでみると、私と彼女とを実名で主人公にした、出来の悪いポルノ小説まがいの文章。ネット上のどこかの掲示板からプリントアウトしたものらしかった。
 私は即座に否定した。
 刑事はとりあわず、さらにこんなことを言い出した。「彼女の新しい彼氏につきまとっているだろう」。
 ようやく私にも事情が飲み込めてきた。本当の容疑はストーカーだったのである(ちなみに私が最初に警察に任意出頭を求められたのはストーカー規制法公布の前日であった。何か、意味があるはずである)。その件で刑事が私の友人たちに事前に聞き込みをしていたことも後で分かった。濡れ衣だった。私が時折やってしまうストーカー行為は、もっと正々堂々としたものだ。
 裁判になってから、彼女の調書やメモがなどが証拠として出てきた。それによれば、はじめ彼女はストーカー被害の相談で警察へ行った。しばらくたって、警察から、ストーカーでは立件が難しいので傷害で被害届を出してくれと言われた。
 要するにこういうことだ。ストーカー被害の相談を受けたが、証拠が上がらない(冤罪なんだから当然だ)。かといって、コイツはシロだという確証も得られない。ちょうどストーカー相談に対し警察の対応が冷たいとマスコミで騒がれていた時期である。もし私が本当にクロで、それを放置する結果となって後々重大事件にでも発展したら責任を問われかねない。ここは立件可能な傷害事件を利用しよう……。こういう捜査のやり方は、違法ではないのか? 少なくとも脱法行為だ。
 これが、私が「こんな裁判認めないぞ」と思った理由その一。
 ちなみにこの冤罪ストーカー事件も、結局、実質私に罪が着せられている。私がストーカー行為をおこなった証拠がないことを認めつつも、彼女が恐怖を感じていたことは事実で、遠因は私にあるというムチャクチャな論法が、堂々と判決文に採用されている。
 さらに言えばこの冤罪ストーカー事件、現在では「真犯人」がほぼ判明している。彼女の新しい彼氏の自作自演だったのである。「ほぼ」というのは、彼女側が提出してきた証拠類と私が提出した証拠類とを突き合わせると、そうとしか考えられないからである。動機もおよそ推測がつく。
 恥ずかしながら、私の「ストーカー行為」も皆無ではなかった。私が彼女と別れたのは警察に呼ばれる一年ほど前のことだが、その際スムーズには別れられず、私が彼女のアパートへ無理矢理押しかけるようなことは何度かあったからである。彼女は、私から逃げるための避難所として、その新しい彼氏とくっついた。その後、私の「ストーカー行為」はすぐにやんだのだが、そうなると不安になるのはその新しい彼氏である。私という「共通の敵」がいなくなると、彼女が自分を必要としなくなるのではないかという不安である。そこで彼氏は、私によるストーカー行為が、日に日にエスカレートしてゆくという偽装工作を、御苦労にも一年間もやり続けたのである(ちなみに、もう四年にもなろうという今も、まだやっているようだ。麻原の口真似をすれば「獄中にいる私にそんなことができるでしょうか?」ということになり、まあ、〈潔白〉は証明された形だが)。
 少し差別的な書き方になるかもしれないが、彼は何度も精神病院の深刻なお世話になっている、れっきとした精神病患者であった。この「真相」に、裁判が進むにつれて、ようやく彼女の側も気づいたようだが、もはや後には退けなくなった彼女は、この一件に関しては完全に口を閉ざしたまま現在に至る。

  フェミニストはもはや国家権力の手先である

 話を元に戻す。
 「こんな裁判認めない」理由の第二は、私の思想・信条に関係する。
 唐突だが私は、ちょっと特殊な思想を掲げる政治活動家なのである。特殊な思想というのは、左翼の中の、きわめて少数の、反主流派とも呼べないような、左翼・反主流派のそのまた傍流といったような立場である。大部分の左翼と、私の思想の違いは多々あるのだが、一番大きな違いは、フェミニズムを認めるか否かという点である。私は、フェミニズムに対して否定的である。否定的どころか、むしろ積極的に撲滅に乗り出すべきだと考えるほどフェミニズムを敵視している。
 フェミニズムという言葉を知らない人もいるだろうから簡単に(大ざっぱに)説明しておけば、女性の人権拡大をめざす思想や運動のことである。それだけ聞くと何かよいことのように受けとられるかもしれないが、とんでもない。「たけしのTVタックル」という番組によく出ていた田嶋陽子というババアがいる。気に入らないことはすべて「男社会のせい」、ちょっとエロチックなCM映像も街頭のヌードの彫刻も何でもかんでも「女性差別」と決めつける、あのババアだ。番組の中ではお笑い的な扱いをされていたが、しかし実はアレがフェミニズムであり、左翼の世界では田嶋陽子の言ってるようなことは「まったく正論」ということになっている。
 左翼というのは、もともと自由や解放を求める思想であり、だから私も左翼になったのだが、しかしこの種の運動は、熱心さのあまりバランス感覚を失って、いつのまにか自由や解放とは似ても似つかぬ、堅苦しい正義の押し売りに変質してしまいがちだ。元々は素朴に女性の自由や解放を求めるところから出発したはずのフェミニズムも、今では田嶋陽子のような歪んだ正義の運動に成り果てている。左翼が再び広く一般の支持を得るためには、こういう傾向は断固として退けなければならないというのが私の考えである。
 どんどん本筋からズレそうなので、強引に事件の話につなげると、このフェミニストたちが近年、力を入れていたのがドメスティック・バイオレンス(DV)防止法やストーカー規制法の制定促進運動だった。つまり、迷惑なオトコどもを取り締まってくれという運動である。
 しかし私は、左翼としての原則的立場から、こうした運動は断固粉砕すべしと考えてきたし、今でも考えている。というのも私は市民の自由と解放を求める左翼として、市民社会のあらゆる領域に公権力の及ぶ範囲が拡大していく近年の風潮に、心の底からの危惧と怒りを感じているのである。要するに住基ネットに怒り、Nシステムに怒り、繁華街の防犯カメラの増加に怒り、歩きタバコ条例に怒り、そしてDV防止法やストーカー規制法に怒っているのである。
 フェミニズムの人々は、セクハラやポルノやレイプ(フェミニストたちの言う「レイプ」とは「セクハラ」と同様、いくらでも拡大解釈の可能なコトバである)やDVを、どんどん取り締まれと主張する。しかし、取り締まりをおこなう主体は、どう考えても国家権力以外ではあり得ない。要するにフェミニズムは、主観的にはともかく結果として国家権力の肥大化を求めているのである。
 近年、民事不介入の原則は極めて評判が悪い。凶悪犯罪防止の邪魔になるということで、どんどんないがしろにせよとマスコミも率先して煽っている。とんでもない話だと私は思う。ストーカーもDVも、目に余るような事例なら従来の刑法で充分対応できるのだ。少々のことは、これまでどおり、当事者同士の力で解決すべきだ。その努力を面倒臭がって放棄すると、その先に警察国家がある。ストーカー法、DV法は、どう考えても、重大犯罪への発展の可能性を想定した予防拘禁法(近代刑法の原則をはみ出すもの)だ。
 と、このような思想・信条から、「こんな裁判認めないぞ」となったわけだ。少々のDVに国家権力が介入すべきではない。私の事件はDVですらない。二年間の交際の末期の修羅場で、ただ一度発生した突発的なものにすぎない(日常的に暴力がふるわれていたわけではない)。私のプライベートな領域への国家権力の介入を、私は認めない。
 これに関連することだが、二〇〇〇年春頃、朝日新聞社の雑誌『AERA』に私へのインタビュー記事が載った。ストーカー問題に関して、先述したような私の見解や、私自身の体験(被害体験も加害体験もある。そもそも現在言われている〈ストーカー行為〉なるものは、昔なら単に〈痴情のもつれ〉などと呼ばれた類の話であって、異常でもなんでもない、性や恋愛がからむ場面ではごくごくありふれたものでしかないのだから)を問われるままに語った。私はもともと、変な政治活動家として、一部である程度知られており、この時も、『AERA』編集部に、私がストーカー問題に一家言あることを知っている記者がいたために成立した記事である。
 どう考えても単なる言論活動だが、実はこの記事を読んだことが、彼女が警察へ駆け込む最後の引き金となったらしく、彼女はマスコミで私が自分のストーカー行為を正当化しており、これ自体が彼女に対する手の込んだイヤガラセであると警察で主張している。ここまでくると被害妄想以外の何物でもない(だいたい私は『AERA』など頭の悪い上昇志向のバカOLが読む雑誌だと決めつけており、まさかそんなつまらない雑誌を読んでいる人間が自分の身近に存在するなどとは夢にも思わなかった。私が誌面に登場したからといって、それが彼女の目に触れることになるなどと、どうして予想できよう。私が二年間も深く交際していた相手が、まさか『AERA』を読むような女だったなんて……)。
 しかしこの、たしかにストーカー擁護論とも読める記事の存在も、警察が私への疑念を払拭できないかなり大きな根拠とはなったようだ。が、だいたいインタビュー記事に関する文章責任は、私ではなく『AERA』編集部にあることくらい常識である。にもかかわらず、判決も、このインタビュー記事が、私の彼女に対する回りくどいストーカー行為であると認定したのである。このこと一つをとっても、とうてい公正な裁判がおこなわれなかったことは明白である。

  インチキ裁判に手を貸したサヨク活動家たち

 「こんな裁判認めない」理由の第三は(まだあるのか!)、ショボい痴話喧嘩が大袈裟なことになってしまった背景である。実はこれが一番重要だったりする。
 二つのグループが関係してきた。一つは、韓国の元従軍慰安婦たちの裁判を支援する福岡の市民グループである。私との仲がギクシャクする前後から、彼女はこのグループの活動に深くコミットしていくようになった。そして、私に殴られたことや、私と別れて以後の、ストーカー被害の妄想などについて、グループに出入りする市民運動家たちに相談していたのである。
 実は私は、先に少しだけ触れたが、地元福岡の左翼市民運動の世界で、とても嫌われている。これはもう、ハンパでなく本当に憎悪の的になっている。私自身、元々彼らのネットワークに属していた人間なのだが、次第に疑問や不信感を持たされることが多くなり、ことあるごとに異論を吐いていたら、追放の憂き目に遭った。納得いかない私は、九〇年代前半の数年間、何度も彼らの集会やイベントに単身乗り込み妨害するという、今にして思えば不毛な活動を続けていた。その時に、さんざん恨みを買っているのである。九五年頃からは、不毛さを自覚して、彼らにはあまり近寄らないようにしていたのだが、彼らの方では、そう簡単に恨みを忘れてはくれない。そこへ数年後、私にヒドイ目に遭わされていると称する女性が現れたのである。「訴えなさい、支援するから」という話に当然なる。
 彼らに紹介されたのだろう、彼女が相談に駆け込んだのが、ちょっと特殊な女性弁護士たちが集まった法律事務所である。ここはフェミニズムの世界ではきわめて有名な弁護士グループで、八九年に日本で初めてセクハラ訴訟を手がけ、勝利したことで知られている。女性と子どもの人権問題を専門的に扱うこの弁護士グループとも、実は私は浅からぬ因縁がある。
 八八年、十七歳の時に、私は高校を中退して、学校問題、いわゆる管理教育に反対する運動の活動家となった。この運動の世界が突然、本当にあっというまに、「子どもの権利条約」批准促進キャンペーン一色に塗りつぶされたのは、九〇年のことだった。私は少数の仲間と共に、強硬にこれに反対した。子どもの権利は子ども自身が学校現場で闘って勝ちとるべし、というのが私たち少数派の主張だった。条約云々なんて話を中心的なテーマにすると、どう転んでも政治家と法律家が主導する運動にしかなりようがない。そんな運動に、せっかく自らの権利に目覚めた中高生たちを動員するに至ってはもう言語道断、自立した子どもたち自身の運動の芽をつむ最悪の方針であると批判した。
 ところが、いくら情理を尽くして説得しても、条約派は聞く耳を持たなかった。そして現実に、周囲の中高生活動家たちが、続々と彼らの運動に動員され始めるのを目のあたりにして、私たちは、条約派の集会を実力で妨害する活動を開始、これが先述の、福岡の左翼市民運動総体を敵に回す活動につながっていくのである。福岡で当時、この「子どもの権利条約」批准促進キャンペーンの中心にいたのが、件の弁護士グループの代表で、後に福岡県弁護士会の副会長などを歴任する地元法曹界の実力者、私が自分のホームページでそのスキャンダルを暴露した(ことになっている)女性弁護士なのである(ああ、やっと話全体がつながってきた。本当に、起訴の対象となっている事実自体はショボいのに、背景は異常に複雑な事件である。これでもかなり枝葉の説明を省いている)。
 弁護士グループは彼女の依頼を引き受け、私を逮捕・送検するよう強力に警察に働きかけ、同時に民事でも私を訴えてきた。
 要するにこういうことだ。私が交際相手を殴ったというショボい事件を、福岡の左翼市民運動の一部が、組織ぐるみで私を潰す材料として利用したのだ。
 基本的に、みっともない種類の事件である。誰だってこんな状況に置かれたら、小さくなって謝罪するしかない。私もきっとそうするだろう。私の情けない姿を目のあたりにすれば、私にたぶらかされている(と彼らには見える)私の少数の活動仲間たちも、きっと私のもとを離れていくだろう。私は一人ぼっちになって、潰れる……。彼らはそう考えたのだ。これは私の被害妄想ではない。法廷で私に問い詰められた(私は民事で弁護士を立てなかったので、自ら相手方を尋問した)彼女自身が、私を訴えたのは、私の仲間を離反させるためだとはっきり陳述してしまった。
 私が法廷でパフォーマンスをした最大の理由は、「オレはオマエラに潰されたりしない」という意思表示のためである。仲間が離反するどころか、私は奇想天外な裁判闘争によって新しいファンを幾人も獲得し、この予想外の展開に件の従軍慰安婦支援運動のリーダーなどはかなり慌てていたようである(そのグループにも時々出入りしている私の友人からの情報)。
 付け加えると、私のパフォーマンスには、現代美術批判のモチーフもある。こんなふうに無闇に論点を詰め込むから理解を得にくくなるのだと自覚はしているので、その説明は省く。

  これは裁判を装った裁判官個人による私刑である

 私は以上長々と述べたような理由で、法廷パフォーマンスを演じた。単にパフォーマンスをするだけでなく、ここに書いたようなことは、法廷でも逐一述べた。その結果が、懲役十ヶ月であった。私は、やっぱり納得いかないと思いながら、今、その刑期を務めているが、これに関してはもう確定してしまっており、今さらどうしようもない。
 問題は、新たな「名誉毀損」事件の公判である。最初に述べたとおり、福岡地裁は懲役一年(求刑どおり)というムチャな判決を出した。
 事件について、もう少し詳しく述べておく。
 実は、私が件の弁護士のスキャンダルを暴露したのは、私のホームページにおいてではない。私は、民事裁判の法廷に提出した陳述書に、そのスキャンダルについて書いたのである。
 訴訟の背景に、従軍慰安婦支援グループやフェミニスト弁護士グループをはじめとする福岡の左翼市民運動の特殊な政治的意図(私の活動を潰すこと)があることを明らかにするというのは、私の法廷における基本方針の一つであった。ことあるごとに「人権」を標榜する左翼活動家というものが、表向きの美辞麗句に反して、裏ではいかにエゲツないことをやっているものかということの傍証の一つとして、私は件のスキャンダルを法廷で暴露した。
 問題のホームページ「フェミニストをやっつけろ! 反フェミニズム裁判HP」は、刑事・民事二つの裁判について詳細にレポートするもので、公正を期すため、法廷に提出された証拠類は、原告側・被告側どちらの提出によるものかを問わず、すべてそのまま公開した。当然、その全部で百件近い証拠類の中には、問題とされたスキャンダル暴露の陳述書も含まれていた。
 これが事件の実相であるから、私は、問題とされたスキャンダルの出所の曖昧さは、法廷での陳述の根拠としては許される範囲内である(そうでなければほとんどの法廷で名誉毀損罪が成立してしまう)、ホームページは単に裁判報道であって何の問題もない、と無罪を主張した。そして、そもそも起訴の対象となったのはホームページだけで、法廷での陳述は含まれておらず、検察は事実関係の調査をおろそかにしたために、犯罪の成立しえないことを誤って起訴してしまっていると述べた。
 結果、求刑どおりの懲役一年。
 仮に、例えば、ホームページは確かに裁判報道を目的としているが、結果として名誉毀損にあたる文書を公開してしまっており、過失責任は免れない、とかなんとか体裁をとりつくろった上での有罪判決なら少しは納得できるが(もっともそれなら懲役刑はあり得ないが)、その程度のつじつま合わせも何もない、弁護側の主張をすべて退けての、問答無用の判決である。これはもう、「求刑どおり」の判決が最初から決まっていて、公判は手続き上、仕方なく開いただけなのだと言われても申し開きできまい。
 いったいこれは「裁判」なのか?
 裁判を装った、裁判官による私刑ではないのか? 医者が自分の患者を意図的に死亡させようと思えばおそらく簡単であるように、裁判官が自分の法廷の被告の自由を意図的に奪おうと思えばまったく簡単(もちろん検事が「求刑」した期間を限度として)であろう。しかも自らの手は汚さずに。これは、そういう「完全犯罪」ではないのか?
 傷害事件の方も含めこれら二件の「裁判」は、裁判官による職権濫用罪、監禁罪、判決文という媒体による名誉毀損罪という、前代未聞の異常な権力犯罪ではないのか?
 三審制など当然のように機能せず、もはや覆しようのなくなった傷害事件の懲役十ヶ月については私もあきらめよう。満期出所日は今年二〇〇三年五月二二日である。必ずこの日に出ようと思う。

     ※

  国選弁護人は私を弁護しなかった

 ざっと以上のような〈手記〉を書いたのが、先述のとおり今年(二〇〇三年)の初め、名誉毀損事件の一審判決が出て、控訴の手続きも終え、二審の国選弁護人の選任通知が届くのを待っている状態にあった時期のことです。弁護士が決まり次第、これをいわゆる右寄りの月刊誌(『諸君!』や『新潮45』など)に転送してもらおうと考えていたのですが、二審の国選弁護人は、ハナからわたしの弁護など真面目にやる気のない、むしろ〈被害者〉の弁護士寄りの人で、私はついに屈服し、敗北を認めざるを得ませんでした。
 つまり、一審とはうってかわって、全面的に自分の非を認め、法廷で平謝りするということです。とても屈辱的でしたが、弁護士に、「まずは反省の態度を見せ、その上で、弁護人の口から情状面について述べる。それ以外に懲役刑を撤回させる方法はない」と宣告され、またそう言う彼自身が、それ以外の弁護ならやる気はないという態度でした。私は、とにかく一日も早く獄外へ出ることを優先させよう、そうでなければ、この弁護士では、自分の本当の主張を獄外の人たちに伝えることさえできないと観念したのです。
 最悪の控訴審判決が出ました。
 懲役一年から懲役八ヶ月への減軽。理由はただ、反省を表明したからで、それがなかった一審段階での懲役一年の判決はあくまでも正しかった、というのが控訴審判決の立場です。
 デタラメな事実認定は元のまま。私の本来の主張は影もない(それを私の口から述べると「反省」の印象が薄れるからということで、弁護士が代弁すると打ち合わせておいたのに、結局、彼は当日の法廷でそういう論点は一切提出しなかった)。そのうえ、形としては減軽されているわけだから、一見、二審ではそれなりの審理を尽くしたかのような印象を与えられる。弁護士の顔は立つ。法廷でブザマに屈服するさまを、傍聴席の〈被害者〉に見せてやることもできた。しかも、まだこれから一年近く、釈放されないままなのです。
 完全にやられた、と思いました。
 上告するか否か、深刻に悩みました。このまま確定させてしまえば、もし一ヶ月程度の仮釈放がもらえれば、ギリギリ今年(二〇〇三年)中に出られます。しかし、上告し、棄却されれば、おそらくその間に、せっかく減軽された四ヶ月分を、新たに費消してしまい、結果としては元の木阿弥ということになってしまいます。
 私は、悩んだ末、上告を選びました。そもそも二審の〈反省〉はウソなのだから、それで減軽された分など、返上してしまっていいのだと自分に言い聞かせました。
 最高裁段階になってやっと、私の主張をいくらか理解してくれる弁護士を探し出せた(国選でなく私選で、しかも地元福岡ではなく東京で。なんと彼は麻原弁護団の一人でした)のですが、遅すぎたのです。

 (後記。結局、不当判決は覆せず、実際の出所は二〇〇四年五月五日となった。私は「名誉毀損」容疑で突然逮捕された二〇〇二年五月一四日からほぼ丸二年間、不当な拘束を受けたことになる。裁判官たちは、もちろん何の咎めも受けていない)