ヤケッパチの一票を! 2007年選挙戦回想記

 一連の選挙戦を振り返れ、と。
 今年(07年)3月から4月にかけての統一地方選、私はその前半戦も後半戦もひたすら戦い続けるというとても珍しいというか、まあハタ目にはおそらく意味不明なことをやったわけです。前半戦では東京都知事選に、後半戦では熊本市議選に立候補してね。
 それでとくに前半の都知事選で、知事選には政見放送というものがありますから、私はこれを最大限に活用して、まあほとんどネットの世界のみではあった気がしますが、ブームを巻き起こした。一時期はもうなんか「ネットアイドル」みたいな感じでね(笑)。今はもう「落ち目のアイドル」というか、それも通り越してすでに「あの人は今?」状態でもあるのかもしれませんが。
 もっとも私は過去に、今回のも含めて3回ほど、脚光を浴びかけては忘れ去られてきた人間ですからね。それ自体は別に「いつものこと」で、慣れてます。ああ、知らない人のために一応注釈しておくと、最初が18歳の時、89年ですね。『ぼくの高校退学宣言』という本を書いて、当時盛り上がっていた「反管理教育運動」の新しい指導者として脚光を浴び「かけた」。次が23歳の時。コラムニストの中森明夫さんが当時『週刊SPA!』に連載していた、サブカルチャー界の次代を担う若者を発掘する雑誌内雑誌「中森文化新聞」で強力にプッシュされて、やはり脚光を浴び「かけた」。だから今回が3回目ですね。
 でまあ、こないだの選挙戦を振り返れと云われても、今の話から分かるように、私は昨日今日活動を始めたいわば「ポッと出」ではなくて、10代後半からですからかれこれ20年近い活動歴を持つ歴戦の革命家なわけです。都知事選に出よう、と思い立つまでにはそれなりの経緯というものがある。
 といってその20年の歴史を逐一語っていったら本題に入る前にとんでもない分量が必要になってくるんで、思い切ってハショります。興味のある人は私の過去の著作なりサイトなりを参照してもらう、と。ちなみに初期の活動については『注目すべき人物』という本が、ひとつひとつの活動について詳細には書いてないけれどもざっとごく最近までの経緯を知るには『最低ですかーっ!』という本がそれぞれオススメです。
 ではどこから話を始めるか。
 やっぱり2002年から2004年にかけての獄中体験、現在の私の活動の出発点はどうしてもそこになりますね。
 都知事選の政見放送でも、「いまどき政治犯として2年投獄され」というフレーズがウケていたようですが、そもそも私がなぜ投獄されるに至ったか、どう「政治犯」なのか、これを説明するのがまた面倒なんですね。さっき云った『最低ですかーっ!』という本、もしくはサイトにそれについても詳しく書いてはいるんですが。
 ここはもうごく簡単にいきましょう。
 政見放送にもあったように、私は長いこと、「異端的極左活動家」として生きてきたわけです。異端ですから、主流の左翼活動家からはもう、蛇蝎のごとく嫌われていました。これは大袈裟ではなく本当に。まあ、主には福岡の狭いシーンでの話ですけれども。で、その福岡の左翼活動家どもが一致団結して、私の政治生命を最終的に断つために、私がプライベートで起こしたどーでもいい痴話喧嘩を、とんでもない悪質な女性差別事件に仕立てあげ、反権力の左翼のくせに警察を唆して介入させたわけです。
 「差別者」として規定されればもう左翼シーンにはこっちにつく人間は一人もいなくなりますから、私は窮余の策として裁判闘争を徹底的にパフォーマンス化することで、前衛芸術シーンを味方につけようとしたんですね。それ自体は一定成功したんですが、法廷をパフォーマンスの場にされてしまった裁判官どもが怒り狂って、そもそもの事件がどの程度のものなのかってことを無視して、実刑判決を出してきたんです。さらにこのパフォーマンス路線の一貫として開設していた公判レポートのサイトに、名誉毀損罪にあたる記述があるとして、刑が追加されました。それで結局、獄中に丸々2年いることになったんです。
 要は事実上、単に裁判官を怒らせたという法廷侮辱の罪で投獄されていたようなものですね。そもそもどういう事件の裁判だったかということが裁判官にすらどうでもよくなってしまった(笑)。だから「政治犯」であるというのは嘘じゃないわけです。
 当然、納得できませんよ。
 だから獄中で考えたわけです。考える時間だけはいっぱいあります。もちろん「復讐」についてですよ。私をかくまでの苦境に陥れた左翼どもも許せないし、裁判官も許せないし、入ってみれば監獄というのはヒドいところで、それを管轄する法務省、ひいては日本政府も許せない。相手が1人や2人なら、「殺す」という究極の選択もあり得ますが、なんせ私の投獄に直接関与した連中だけでも数え挙げてみると30人くらいいる。実際数えてみたんですよ(笑)。とてもじゃないが30人殺すのは通常の方法ではムリだ。ではどうするか。
 結論から云えば、私はこの獄中で、「異端的極左活動家」であることをついにやめる決意をしました。それまでは、あくまでも自分は左翼の圏内で活動していると自認していました。左翼の大部分、というよりほとんどすべての部分とソリが合わないし、それどころかしょっちゅうモメてしまい、実際、「敵対している」と云った方が当たってます。しかしそれは連中の方が堕落・腐敗している結果であって、左翼として正しい路線を歩んでいるのは私の方だという自負があったということです。もしかすると正しい左翼は日本じゅうに私一人しかいないんじゃないかというぐらい思いつめていました。
 2年間の獄中生活のちょうど真ん中あたり、2003年の5月に、友人が差し入れてくれた『ファシズムの誕生』という本を読みました。ムソリーニの前半生を詳細に描いたブ厚い伝記です。その友人は今でも左翼ですからね、自らの軽率な行動を悔やんでいるようですよ(笑)。
 この『ファシズムの誕生』を読んで、すべてが解決しました。ああ、そういうことだったのかと。
 私はね、つまりファシストになるために生まれてきたんですよ。
 私は実はちょっと神がかったところがありまして(笑)、なんというか、自分は「選ばれた人間」だという思いがあるわけです。もちろん選ぶのは「神」ですよ。つまり自分は何事かを為すという使命を持ってこの世に生を受けたはずだ、根拠を示せと云われても困りますが、そう確信して生きてきました。
 しかし人生ちっともうまくいかない。私が、こっちの方向が正しいと確信して進む道が、常にヒドい結果をもたらす(笑)。左翼の世界でイジメ抜かれて、とうとう「ほぼ無実の罪」で投獄までされてしまった。おかしい。何かがおかしい。「神よ我を見捨てたもうたか!」という心境ですよ。とくに投獄に至る過程ね。これは改めて振り返ると、1990年代半ばくらいから伏線が張られていたというか、どこでおれは道を間違えたんだろうと考えた時に、少なくとも90年代半ば以降は、私が正しいと信じる方向を誠実に歩み続けるならば、「2002年に投獄」という結果以外にはあり得ない。監獄というのは、入ってみれば分かりますが、ほんとに地獄です。神様はどうしてこんなに私をイジメるのか? 神様はいったい私に何をやらせたいんだ? やっぱりすでに私は運命に……神ってのはつまり「運命」と云い換えてもいいわけですからね、運命に見放されているんだろうか? 2年間の獄中生活の前半はもう、ずっとそんな暗澹たる気持ちで過ごしました。
 で、啓示が訪れるわけです。
 そうだ、私はファシストになるために生まれてきたのだ。一度歴史の舞台から退場させられてしまったファシズムを、この極東において再生させるために、神は私をこの世に遣わしたのだ。
 ファシストになるってのは大変なことですよ。生半可な受難ではファシストになんかなれません。「Workin' class hero is something to be」的なね(笑)。ああ、神様は私をファシストにするために、これまでこんなにヒドい目にばかり遭わせてきたんだ、なんだそうだったのかと。
 ファシズムというのは、国家権力と左翼勢力とを同時に敵とみなす革命思想です。ただの右翼とは違う。国家権力に対する憎しみが極限に達していなければファシストにはなれないし、また左翼勢力に対する憎しみも極限に達しなければファシストにはなれない。私が投獄されるに至る経緯はまさに、そのいずれをも完成させるだけの体験となったわけですね。私怨ではないかとよく云われますが、何をおっしゃいますやら、歴史が必要としている情熱と、私怨とがまったく矛盾していないことこそ、私が「神に選ばれた者」である証拠です。ヘーゲルを読みなさい、ヘーゲルを。「見よ、世界精神が今、おれは世界精神だと云っている」(笑)。
 ムソリーニってのがやはり私と同じように、まさに「異端的極左活動家」として当時の左翼主流からジワジワ、ジワジワと外れていって、その問題意識の延長線上でファシズムという画期的な新思想を確立するわけです。『ファシズムの誕生』という本にはその過程が詳細に描かれていて、もっとも著者はあくまで反ファシズムの立場から書いてるんですけれども、比較的公平な記述で、そうするとほとんどムソリーニと同じような茨の道を歩いてきた私には、ムソリーニの気分や発想が手にとるように分かる。おそらく著者がピンときていないだろうムソリーニの片言隻句さえもが、するすると私の中に入ってくる。
 私の使命はファシズムの再建なのだと分かってしまうと、あとはもう、さまざまの書物を濫読して、それらをことごとく私のファシズムの栄養分とすることができました。獄中で読んで一番影響を受けたのは、大澤真幸の『文明の内なる衝突』です。「9・11」以降の情勢を、ポストモダン左翼の視点で分析したものですが、私はこれを何度も読みこんで、自分なりのファシズム思想に換骨奪胎しました。都知事選などで使用した2種類のポスターのうち、文字ばかりの方、あれが実はそのエッセンスなんですね。だから読む人が読めば、私がただの“電波系”ではなく、近年の思想潮流を意外と(?)踏まえてものを云ってることが分かるはずですよ
(分かってる例)
 さっきも云ったとおり、獄中ではものを考える時間には事欠きませんから、それはもう徹底的に考え抜きました。ムソリーニのファシズムを基盤にしてはいますが、当時と現代とでは情勢が違いますから、半分くらいは私のオリジナルです。ヒトラーにはあまり共感できませんでした。もちろんヒトラーのナチズムもファシズムの一形態ですから、学ぶべきところはありますが、やはりファシズムの本流はヒトラーではなくムソリーニです。思想的にも、ニーチェなんかが入っていて、「異端的左翼活動家」時代から、「今の左翼にはニーチェが足りないんだ」とか息巻いていた私ですから、ムソリーニにはほんとに共感できました。あ、ヒトラーも一応、ニーチェ入ってるか。
 まあ私のファシズム論をここで長々と展開しても仕方ありませんし、それについては現在『ファシズム入門』という単行本用原稿を準備中ですからそっちに譲ります。
 とにかく私は獄中で「ファシズムに転向」した、と。
 もちろん私なりの、革命思想としてのファシズム体系を組み立てるだけでなく、具体的にどういうふうに運動を展開するか、とりあえず当面の目標としてはファシスト党を組織しなければならないわけですが、どうすればそれが可能なのかということもひたすら考えました。
 党の綱領も獄中で考えましたし、党のシンボルマークとか、旗とか、党歌とか……、まだ綱領しか発表してませんけれども、実はすでにそういった他のことも獄中でたいてい考え済みです。
 もちろん党は選挙にうって出なければいけません。
 後でまた話すことになると思いますが、私はもともと棄権主義者です。世の中を変えるために、選挙なんか何の意味もない。これは一人私のみならず、いわゆる革命的な左翼、ラジカルな、急進派の左翼活動家にとっては常識です。私もその「異端的」な一員でしたから、選挙を通じて云々、なんてのは政治活動として最低の部類であると考えてきたわけです。もっとも、この点は左翼をやめてファシストになった現在でも本質的には変わりありません。選挙なんか、ほんとにどうでもいい。
 しかし、政治宣伝としては使いでがあるということに気づいたんです。当落を度外視すれば、とんでもないインパクトを広く世間に与える選挙戦が展開できるのではないかと、そう考えたんですね。
 おそらくこれまでも同じように考えて選挙に出た人たちはいるはずです。私と同じように、選挙や議会制度にまったく意味を認めない、いわゆる新左翼党派の諸君も候補者を立てることがあるし、中には当選して、現に地方議員をやっている人もいます。選挙や議会制度を通じて世の中を変えようというのではなく、当落を度外視して、純粋に政治宣伝として選挙に出る、という人たちは私以前にももう掃いて捨てるほどいるわけです。
 しかし私はやれると思いました。過去のそれらの人々と、私との大きな差は何か? 云うまでもないでしょう。センスです。とくに言葉のセンスですね。私はとくに書き言葉に関しては天才であるという自覚がありますから、私が選挙制度を確信犯的に利用すれば、とんでもないことができる。
 実はすでに獄中の段階で、都知事選などで使用したポスターのキャッチフレーズなんかはほとんどできてました。
 まずデカデカと「政府転覆」。「こんな国、滅ぼそう」、「改革はもう、あきらめよう」、「どうせ選挙じゃ何も変わらない」、「ヤケッパチの一票」、「悪意の一票」、これらはすべて獄中で思いついた選挙ポスター用のフレーズです。さらには、当落を重視するフツーの選挙なら「一票の重み」なんて嘘っぱちだが、私が煽りたてたように、現状を根底から否定している“少数派”が少なくともこれだけの数いるんだぞ、というデータを政府の奴らに突きつけることを目的とした投票ならば、一票一票が充分な「重み」を持つというレトリックも、獄中で編み上げたものです。
 ただしこれら選挙に関する構想は、私自身が出馬することを前提としたものではありません。ファシスト党を作って、ある程度の組織ができあがったら、誰か党員を立候補させるというイメージです。あるいは将来的には、党そのものが比例区で名乗りをあげる。
 選挙制度についても、獄中である程度のことは調べました。こういう資料が読みたいとかいう感じで、獄外の友人に差し入れを頼んで。供託金没収のしくみとかですね。供託金というのは、まあ立候補の手数料だと思ってください。選挙管理委員会にこの供託金というのを預けないと、立候補が受理されません。ある程度の得票があれば返還されるし、そうでなければ没収されます。おそらく、面白半分とか売名行為で立候補する人をあらかじめ排除する目的で作られた制度なんでしょう。
 で、ご存じない方が多いと思いますが、供託金返還ラインというのは一律何票以上とか、何パーセント得票以上とかではないんです。その選挙で当選者は何人なのかによる。例えば20人の議員がいる市の議員選では、当選者はもちろん「20人」ですよね。その数を10倍するんです。「200」です。つまり、供託金没収ラインは、有効投票総数の「200分の1」ということになります。あ、「有効投票総数の」ですから、棄権した人とか、書き間違いなど無効票は含みません。
 だから例えば人口5万人の市で市議選があったとしましょう。うち有権者が仮に4万人とする。フタをあけてみると、投票率が60パーセントだったとする。無効票はとりあえず考えないことにして、全部で2万4千票になりますよね。で、当選するのは20人であると。その10倍の200でこれを割ると、120票です。市議選での供託金は、政令指定都市を除いて一律30万円ですが、つまり今の例では、120票入ればそれが全額返還されるということです。4万人の有権者のうちたった120人ですよ。イケそうじゃないですか。当選を目指すなら別ですが、党の宣伝を目的として、つまり存在感のアピールと、多少なりとも新規党員やシンパを獲得することを目的としてやる選挙なら、得票数は関係ない。ムダな出費は避けたいから、せいぜい供託金ラインをクリアできればいい。
 過去に極右や極左の議会外の政治党派が候補を擁立したことはいくらでもありますが、ほとんどすべて、フツーの選挙をやっちゃうんですね。アブない奴らだと思われたくないんでしょう。たいていは「市民派」とか「改革派」みたいなイメージを押し出して、無難な線でやります。先日の参院選に出た極右政党の「新風」もそうだったでしょう?
 そういうんじゃダメなんですね。
 どうせ通りゃしないんだから(笑)、いや、大きな市議選レベルなら1人2人通せるかもしれませんが、極右や極左の最終的目標は社会全体を革命的に変革することですから、1人や2人の議員を持てたからって、大局的には何の意味もありませんよね。議員を誕生させることよりも、しっかりした同志を獲得することの方がずっと大事です。だとすれば、過激な主張をオブラートに包むべきではない。
 人口5万人の街なら、過激な人は何人かいますよ。そういう人をできるだけ全員発掘する。それが選挙権のない未成年であってもいいわけです。心底から過激な人は何人かでしょうが、過激なことを好む人は何十人かいます。中核になる何人かを確実に同志として獲得しつつ、さらに何十人かをシンパとしてネットワークする。そういう成果を出せれば、革命党派としては現段階では充分じゃないですか。当選する必要はないし、供託金を没収されたっていいかもしれません。重要なことは、私はよく「学年に1人くらいいるタイプ」と云うんですが、まあ数百人に1人くらいの「圧倒的少数派」のハートをガッチリつかむことです。そのためには自分たちが過激派であることを一目で分からせなくてはならないんですね。「市民派」みたいなノリは却ってマイナスです。そんなことをすれば、寄ってくるのはどーでもいい連中ばかりになるし、本来発掘したい潜在的過激派には見向きもされない。何の意味もありません。
 過激な主張を全面展開しても、何百分の1の得票は可能です。つまり私は獄中で、議席定数が何十かあるような規模の市議選なら、過激なファシスト党にとって利用価値があるという判断をもったわけです。
 市長選や知事選は別ですよ。当選するのは1人ですよね。つまり「1×10」で供託金ラインが「10分の1」になるということです。そこまでの得票は過激派には不可能です。国会議員も同じ。小選挙区はやっぱり多くは1人しか通らないし、あるいは2、3人枠の選挙区でも「20分の1、30分の1」の得票が必要になりますよね。県議選も、たいてい県全体をいくつかの選挙区に分けて、1つの選挙区からは数人しか通りませんから、やはり何十分の1かの得票が必要です。将来的にはともかく、現段階ではムリな数字です。少なくとも旗揚げ間もない初期においては、ある程度の規模の市議選しかありません。
 さきほども云いましたが、私の獄中での構想は、私自身がそうした選挙に立候補するというのではなく、まずファシスト党を組織し、ある程度の規模になった段階で、私以外の党員を立候補させるというものです。
 では最初期の党員をどう集めるか。
 もちろんそれについても考えました。
 著作を出すのが一番いいだろう。これは過去の経験ですね。これまでに出した本のうち、『ぼくの高校退学宣言』と『さよなら、ブルーハーツ』の2つは、それぞれ数千部を数ヶ月で完売し、前者は約200人、後者も何十人かの読者からコンタクトがありました。前者の刊行時には反管理教育運動をやってましたから、これら読者をある程度有効に組織することができました。後者の刊行時は、これといって活動らしい活動をやっていない私自身の停滞期でもあって、それができなかった。総じて私の20代、これはぴったり90年代と重なりますが、精神的にひたすら流浪していた感じがあります。しかし獄中でついに新たなビジョンを獲得したわけです。次に何千部か売れる本を出せば、その読者をファシスト党に有効に組織することができるだろうと考えました。
 ただし、もはや私は出版業界からほとんど相手にされていない現実があるわけです。流浪の20代の時期にも、一貫してさまざまの原稿を持ち込み続けていましたが、とくに90年代半ば以降、まったく相手にされなくなりました。
 せっかく素晴らしいビジョンを得たというのに、これではどうすればいいのか。
 私は、福岡の出版社から新著を出すことに決めました。もちろん、それでは何千部という数字は望めません。しかし重要なのは部数ではなく、実際に書店に並ぶことです。逆に、店頭に並びさえすればある程度は売れるという自信がありました。というのは、過去に数千部売れた2冊の共通点は、いずれも大手出版社からの刊行であることです。前者は徳間書店、後者は宝島社です。これら以外にさらに5冊の本がありましたが、いずれもほとんどの人が聞いたこともない零細出版社からの刊行です。それらはすべて何百部かしか売れていない。零細出版社の本は、なかなか流通しない、店頭に並ばないんです。とにかく店頭に並ばなければ出す意味がない。そして、店頭に並びさえすれば、私の本は少なくともまったく売れないということはないはずだ。
 さらに私のファシスト党構想は、活動区域を九州内に限るというものでした。これはヒトラーのやり口なんですが(笑)、圧倒的な少数派は、その貴重な勢力を、地域を限定して投入した方がいいんです。それも首都圏なんかは避けた方がいい。考えてもみてください。仮に私が何年かかけて、千人のファシスト党を建設することに成功したとしましょう。1億2千万の中の千人ですから、圧倒的少数派です。12万分の1です。この千人が、日本全国に散らばっているのと、他の地域には1人もいないが、九州には千人のファシストがいるというのと、どっちが衝撃的ですか。
 だから、最初期の同志を募るための著作は、九州内の書店にさえ並べばいいわけです。そして福岡の出版社であれば、たいていの書店には郷土出版社のコーナーというのがあって、だいたいこれは「九州内の」という意味ですから、つまり九州内の書店にはまんべんなく並ぶ。地元出版社コーナーの枠があるわけですから、その枠内の競争で目立つ、売れ筋っぽく見えれば、その書棚では平積みさえ見込めます。私の才能をもってすれば、九州発の貧困なコンテンツの中で目立つのは簡単です。
 それなら初版千部でいい。千部が九州内の書店にバラまかれれば、コンタクトをとってくる読者は30人くらいいるだろう。うち熱狂的な反応を示した数名を、私のもとで徹底的に修行させ、ファシズム運動の指導者として育成しよう。彼ら数名が、九州各地に散り、まずは他の20数名を率いて具体的な行動を起こせば、その過程でさらなる同志が発掘されるだろう。そこからまた見込みのある者を私のもとへ派遣させ、指導者としての訓練をほどこす。訓練を終えたら、彼らもまた九州各地へと散り……、とまあそういうイメージです。
 私はファシズムの指導者を育成する塾をやる。現代の松下村塾です。獄中では幕末についてもかなり勉強しましたから。
 で、本の内容ですが、一から書くとなると時間がかかります。私はかなり焦っていましたからね。もちろんいたずらな焦燥感はもともと革命家に必須の条件でもありますが、獄中生活というのは焦燥感を極限にまで高める作用があります。とにかく出所したらすぐにでも動き出したい。ゆっくり原稿なんか書いてる時間はない(笑)。
 そこで私が考えたのは、私は10代後半から、もうかれこれ15年くらい文章を書き続けてきたわけです。本になったもの、雑誌に書いたもの、ミニコミ誌で発表したもの、ネットで発表したもの、未発表のもの、とにかく膨大な量があります。それらをベースに、「名言集」のようなものを作れるのではないか。「外山恒一語録」ですね。時代順に並べれば、管理教育反対を叫んでいた素朴な戦後民主主義の段階から、次第にこじれて「異端的極左活動家」となり、ついにはファシストとして再生する過程をダイジェストで理解してもらうこともできる。これまでこういうことをやったり書いたり考えたりしてきて、それで現在の私がありますという、名刺代わりに使える本ですね。しかもそれらの文章のほとんどは1台のパソコンの中に入っていて、そこから取捨選択すればいいだけですから、どうかすれば半日で原稿を準備できる(笑)。タイトルまで獄中で考えて決めた。『最低ですかーっ! 外山恒一語録』です。「最低ですかーっ!」というのはもちろん福永法源の「最高ですかーっ!」のパロディで、ちょっとネタ的には古いかなという自覚もありましたが、インパクトはあるだろうと。もともと入獄直前の時期に何度かライブハウスにミュージシャンとして出演したことがあって、そういう時に冒頭で「ツカミ」として使ってたフレーズなんですね。
 獄中で構想したことは他にもたくさんありますし、今まで云ってきたことももちろん細部をかなりハショってるんですが、まあ大ざっぱにこういう構想を持って、2004年5月5日、ついに出所の日を迎えたわけです。